深川家のあらまし

深川家イメージ
深川家について

深川家は元々紀州熊野の八庄司(伊勢平氏)の一つ鈴木氏の流れとされています。

1185年(寿永)壇ノ浦の戦い以降、肥前菊池氏に属し菊池郡深川庄(現在の菊池市深川)を領しました。

その後南北朝時代を迎え菊池軍(南)と足利軍(北朝)が筑後川で戦い、南軍の大将であった阿蘇惟直は天山山頂にて割腹。(天山山頂に慰霊碑が有ります)菊池軍(菊池武光)の一翼であった弟の菊池武義(深川家の祖)は討死。

残った深川一族(約200名程)は肥前国小城郡司千葉胤勝に属し大楊(おおやなぎ)深川村(三日月町織島)を拝領し、姓を深川と称しました。その後1615年(元和元年)頃小城鍋島氏成立の時に武士を離れたとされています。

1710年(宝永七年)16代興右衛門の時、中町に深川から移住しました。

東の深川1817年(文化14年)頃21代甚兵衛の時に分家し上町に移りました。現在の深川家の通りを挟んだ西側になります。西の深川は昭和40年代まで全く同じ造り、同じ間取りの家が斜め前にありました。更に1825年頃、表通りの反対側に分家し本家の「西の深川」分家の「東の深川」と呼ばれました。

現在の深川は「東の深川」になります。深川家は江戸時代の中期頃から酒造業を営み酒の小売も行っていました。また、小城町(江戸時代には上町、中町、下町を小城町と呼んでいました)の町役を務めていました。その後明治時代から昭和時代前期にかけて肝煎庄屋と米屋を営んでいました。

遺産にまつわる物語
 
 深川家は、旧小城城下と鎮守の祇園神社を結ぶ参道沿いに位置する旧造り酒屋の町家である。裏の土蔵で酒造りが行われ、主屋の一角を占めていた店頭で、酒の小売りが行われていた。一部は荷馬車で牛津まで運んでいたそうである。深川家がある上町・中町・下町は、江戸時代前期の寛永年間に小城鍋島藩初代鍋島元茂によってつくられたとされる。この三町では、祇園川の清流を3本の水路によって取り込み生活用水にあてるなど、江戸時代の都市計画もうかがわせる。
 
建物の特徴
 
 主屋の建築は江戸時代末期と推定される。主屋と土蔵が渡り廊下でつながる。外観は真壁で、二階両端の戸袋を白漆喰で塗り込めている。一階出入口の大戸が失われているものの、縦格子が三間にわたって付き、町家らしい外観を呈している。内部には、「ざしき・ぶつま・ちょうば・みせ・どま」がある。

 佐賀県 県土整備部 都市計画課 第2005-12号 深川家住宅 【小城市小城町】より